会報「札響くらぶ」第26号


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第26号
2003年11月/発行
/札響くらぶ
(財)札幌交響楽団内
〒064-0931 札幌市中央区中島公園1番15号(札幌コンサートホール内)
電 話 011-520-1771 FAX 011-520-1772


仙台フィルハーモニークラブ訪問実施

山響ファンクラブも合流


 去る10月18日、19日に札響くらぶの仙台訪問が実現しました。
 昨年12月に仙台フィルハーモニークラブの皆さんが来札され、交流会を行ないましたが、「今度は札響くらぶが仙台を訪問しよう」というスタッフの熱い思いで、会員の皆様に呼びかけたところです。結果としては、鈴木副会長、西川事務局長をはじめとするスタッフのメンバー9人と、個人参加の会員1人の計10人での訪問となりました。
 18日夕刻仙台フィルの定演を鑑賞後、夜10時から仙台国際ホテルで交流会が行なわれました。その席に思いがけず山響ファンクラブの加藤会長、伊藤事務局長ご夫妻と会員の方1人の計4人が駆けつけ下さり、期せずして北海道・東北の3つのプロオーケストラのファンクラブの合同の交流会となりました。

   
        SPC工藤会長

 それぞれのファンクラブの方々が、「ファンのバックアップでよりよいオーケストラになるよう頑張ろう」 「今後もファンクラブ同士の交流を広げていこう」と熱のこもった挨拶をされていました。
 途中からは、当日指揮をされた仙フィル音楽監督の外山雄三氏も出席され、真夜中まで同じ思いの仲間同士の楽しい語らいが続きました。

  
     山響ファンクラブの皆さん           外山さんと共に

(仙台訪問の詳報は4・5ページに)

札響くらぶは札響を愛するファンの札響応援団です


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指揮者に聞く

         仙台フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者
             
うめ  だ    とし  あき
      梅 田 俊 明 さん

「札響は大人のオケ」だと思います!!


梅田俊明さんのプロフィール
 東京に生まれる。5歳よりピアノを始め、井上直幸、新井精氏等に学ぶ。1984年桐朋学園大学音楽学部を卒業。86年同研究科を終了。指揮を小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、コントラバスを小野崎充、ピアノと室内楽を三善晃の各氏に師事。更に、83、84年には来日中のジャン・フルネ氏にも学んだ。また在学中よりNHK交響楽団においてピアノ、チェレスタ奏者として出演し、同楽団の推薦で86年よりウィーン国立音楽大学指揮科に留学、オットマール・スイトナー氏に師事し、研鑽を積んだ。帰国後、89年12月より92年4月まで大阪センチュリー交響楽団指揮者を務めた。
 90年4月より仙台フィルハーモニー管弦楽団指揮者に就任。92年4月より96年3月まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団の指揮者の任も果す。客演としては、N響、読売日響、東京都響等をはじめ、国内主要オーケストラとの共演を重ね信頼も厚い。
 2000年4月より、10年間指揮者を務めてきた仙台フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者に就任



 8月29日第459回札響定期演奏会に客演された仙台フィル常任指揮者梅田俊明さんに、8月26日の練習終了後、芸術の森でお話を伺いました。
――  東京のご出身だそうですが、初めての北海道はいつですか。
梅田  多分、家族旅行などで来ていると思うのですが、記憶がはっきりしません。記憶に残っている範囲では、大学生の時に桐朋の学生オケで道内公演をした時だと思います。その時は、私はコントラバスか鍵盤楽器をやっていたと思います。
――  北海道の印象はいかがですか。
梅田  とにかく自然が素晴らしいですね。空気も本州とは違うと思います。今日も、この芸術の森に来て、仕事で来ているのか、自然を楽しみに来ているのか分からないといった感じです。
――  食べ物はいかがですか。
梅田  実は、公式には「自然」ということなのですが、本音でいうと北海道に来る一番の楽しみは食べ物のおいしさです。海、山を問わずに、北海道の食べ物はおいしいですね。
――  札響の定期は今回が初めてですが、かなり客演していらっしゃいますね。
梅田  多いですね。この10年は、年に2・3回のペースでご一緒していると思います。札幌だけではなく、西の江差から、網走までは行っていませんが道東まで、かなり広い範囲にご一緒しています。
――  ということは、札響にはかなりの回数客演していらっしゃいますが、梅田さんの札響に対する印象はいかがなものでしょうか。
梅田  一言で言って「大人のオーケストラ」ということですね。当然のことながら、年齢構成が高いという意味ではありません。「大人」というのはまさにプロのオーケストラということでして、例えば、こちらがちょっと無理なお願いをする、するとすぐに、「それでいいの」という反応が返ってくる。でも、それが良いものであれば今度は皆さんがそれでやって下さる。逆に、私の意図を楽員の皆さんが疑問に思うような時は、私の意図と全く別の結果を生むという所がありますね。
――  キタラはいかがですか。
梅田  「札響が羨ましい」の一語に尽きますね。仙台にもほしいですね。私は世界中のホールを知ってる訳ではありませんが、国内に関して言えば、他にも良いホールはあります。例えば大阪のザ・シンフォニーホールとか。でも、キタラはそういうホールの良い所をとって造られたホールなんですよね。実際に演奏してみても、間違いなく日本で1・2を争う素晴らしいホールだと思います。少なくとも東京にはこんなホールはありません。最高です。
――  話は変わりますが、指揮者を志されたきっかけは何だったのですか。
梅田  ピアノが好きで5歳から習っていて、単なる憧れですが、幼稚園の卒園文集には「将来は音楽家になりたい」と書いていたんです。小学校の4年生の頃にコンサートに行ってオーケストラを聴いたこと、家にレコードがあって聴いたりするうちに、FMのエア・チェックをしたりするようになり、すっかりオーケストラ、具体的には「未完成」にはまってしまったのです。ピアノではああいう音は出せないし、オーケストラが面白いと思ったのです。で、小学校の卒業文集には「将来は指揮者になりたい」と書きました。夢が、音楽家から指揮者に具体的にしぼられた訳です。でも、それはあくまでも夢だったのですが、大学を受験する時に、ずっと理系の進学を目指してきたのですが、どうしても音楽の道を捨て切れなくて、それで、家族会議をして、音楽をやらせてもらうことになりました。
――  ご出身の高校は開成高校だそうですが、開成高校から音大に進学する例は少ないのではありませんか。
梅田  少ないでしょうね。よく知られている方としては岡村喬生さんがいらっしゃいますが、あの方も大学は早稲田ですしね。桐朋の先輩としては、東京カルテットの池田菊衛さんがいらっしゃいますが、それ以外にもいらっしゃるのでしょうが、あまり聞きませんね。
――  話題を変えて、これまでの音楽人生で特に思い出深いこと、また逆に将来への夢のようなものがありましたらお聞かせ下さい。
梅田  正直言いまして、今のところは目前の音楽会で精一杯です。例えば、今回にしても前に「英雄の生涯」をやったことなどを思い出したりもしますが、オーケストラも違いますし1年半もたっていますから、今の音楽会に完全燃焼という日々でここ5・6年やってきましたから、そのような思いを馳せている余裕はないですね。
    ただ、心がけていることはあります。初めてN響を指揮した時、戦いだと思って、どうやったらこのオーケストラに勝てるかな、というような気持ちで指揮台に立とうと思っていたのですが、今一緒に音楽作りをしようとしているのに、どうしてそんな戦闘態勢みたいにしているの、と言われたのです。それではっとして、共同作業をするために指揮台に立っているというスタンスは、ずっと変えないようにしていこうと思っています。
――  ご承知のように、昨年来札響の経営危機の問題が表面化し、今再建のために努力している最中ですが、仙台フィルの現状はいかがでしょう。
梅田  厳しいのはどこのオーケストラも一緒だと思います。仙台フィルは札響とは情勢も違いますし、一概には言えないと思いますが、今年、オーケストラ始まって以来初めての賃金カットも経験しました。でも、仙台フィルの場合は、僕はもう14年と長いですけれど、日本一真面目なオーケストラだと思います。例えば、前回の国際コンクールの時でも、どんなにスケジュールがタイトでも1日5時間を越える練習でも文句を言わずに頑張る、というような所があります。そんなオーケストラですから、初めての方にも常連の方にも、ああいい仕事しているなと感じていただくしかない。それだけ一生懸命にやっていて市民権を得られないのであれば、オーケストラのあり方というものを根本的に考え直さなければならないと思っています。
――  最後に、昨年仙台フィルハーモニークラブの皆さんに札響を聴きに来ていただき、この10月には私たち札響くらぶが仙台にお邪魔する計画ですが、オーケストラのファンクラブについてお聞かせ下さい。
梅田  仙台にもファンクラブができ、何年か前に我々も大喜びをしたのですが、こんな心強いことはないですよね。
    クラシックというと学校で習った難しいものみたいに、我々の生活は音楽抜きには考えられないのに、拒否反応や食わず嫌いの人が多いですよね。ファンクラブが我々と力を合わせて、そういう人々を音楽に誘う大きな力になってくれればと大いに期待しています。

(佐藤良次)


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札響くらぶ仙台訪問紀行

〜SPC訪問団報告〜

 10月18日土曜日午前9時、札響くらぶ仙台訪問団の一行は新千歳空港に集合しました。前日までの情報では、上田会長も公務の都合をつけて参加、計11人ということでした。しかし、結局上田会長は不参加、「皆さんと一緒に行きたかった、聴きたかった仙台フィル」という上田会長のメッセージが西川事務局長から配布されました。また、参加予定だった笠倉さんがよんどころない事情で急遽不参加とのこと、結局鈴木副会長、西川事務局長ご夫妻、スタッフの佐藤昇子、田山、武藤、鎌田の各氏、そして佐藤の夫婦という9人の訪問団とJRの添乗員1人ということになりました。
 ANA722便で11時35分に無事仙台空港に到着。一同空港で記念撮影。仙台市内観光へと出発しました。
 たった9人の団体なのに、小型の手配がつかなかったとのことで大型観光バスに乗せられてびっくりしました。
 まずは伊達政宗の廟所である瑞鳳殿を見学、仙台名物牛タンの昼食を「裏晩翠」という専門店で取りました。名前から土井晩翠に関係があるのかと聞いたところ、店が「晩翠草堂」(晩翠が晩年を過ごして亡くなった住居)の裏手にあたるとのこと。さっそく興味のある何人かが、牛タンもそこそこに訪れました。
 午後は、青葉城址、大崎八幡宮を見学して仙台国際ホテルにチェックインしました。
 午後6時過ぎに例の大型バスでホテルを出発、仙台フィルの定演会場「仙台青年文化センター」に向かいました。会場ではSPCの工藤会長を始めスタッフの方々が出迎えて下さり、昨年12月以来の再会を喜びあいました。
 会場は定員800人の中型ホールで、仙フィルはここで定期の2回公演を行っています。
 札響と同じように開演前にはロビーコンサートがあり、熱心なファンが多数聴き入っていました。





 バーカウンターは1か所のみのこぢんまりとしたものでしたが、ビール、ワインは350円、サンドイッチ200円というリーズナブルな値段で、バブルをそのまま引き摺っているようなキタラの高級志向にちょっと疑問を感じました。
 演奏会は音楽監督外山雄三氏の指揮で、間宮芳夫の現代曲に、「田園」「道化師」というプログラムで、我々がいたせいではないでしょうが、仙フィルは熱演でとてもよい演奏でした。ただキタラで聴き慣れている我々には、やはり音響はいまいちで、せっかくの良い演奏がもったいない、楽員さんが気の毒、という印象を受けました。
 演奏会終了後、例の大型バスにSPCの皆さんも同乗していただき、宿舎の仙台国際ホテルに戻り、すぐに交流会が開催されました。
 駆けつけて下さった楽員の有志のご厚意で、オーボエ3本にクラリネット1本という変わった編成で「スラブ舞曲」などを演奏して下さり、その素晴らしい演奏にビックリたまげました。
 和やかで、熱っぽい交流会が終了し、その熱に浮かされて訪問団は「二次会やるべさ」ということになり、怪しげな中年男女の一行が道をふらつくことになりました。当局が情報を察知したのか、営業している店はなく、何マイルもさ迷いやっと一軒の店の灯を発見。「たった1泊2日の訪問だが、本当に有意義な訪問になった」と、皆で自画自賛しながら、締めくくりをしました。

(佐藤良次)

札響物語 25

札響で日本デビュー   〜外国人指揮者編B〜

 1969年8月、ペーター・シュヴァルツ氏は指揮者として札響とのお見合いコンサート・ツァーに初登場した。北見、釧路、根室での労音コンサートだった。プログラムは「運命」「未完成」「新世界」、お互いに演奏し慣れた曲で、腕試しにはもってこいだった。
 お見合いは成功し、翌年札響常任指揮者ペーター・シュヴァルツが誕生した。
 シュヴァルツ氏はウィーン少年合唱団の出身で、生粋のウィーン子だった。札響が終わってウィーンへ帰って、指揮科の教授として活躍し大勢の日本人指揮者も養成した。73歳で亡くなる直前にも、夫人と札響の話をする程札響を愛し札幌を愛していた。
 我々の感覚ではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどは尊い遠い存在で、崇高な音楽を作った楽聖だったが、シュヴァルツ氏のようなウィーン子にとってはお隣の曾祖父のような存在で、大作曲家たちが交響曲に使ったモチーフやテーマの多くが、今でも口ずさまれる童謡や民謡の一部にあり、身近なものだと教えてくれた。楽団員が緊張のあまりトチルと◎2353don’t afraid”と言っていた。
 初代常任指揮者荒谷正雄氏が目ざした古典的な札響のサウンドは、シュヴァルツ氏によってさらにバランス良く磨きをかけられた。
 また、まだ馴染みの薄かったウィーンの作曲家ブルックナー、マーラー、プフィツナーなどの作品を積極的に札響で演奏し、札響で演奏したこれらの曲の録音テープは、各地のオーケストラに廻された。良い響きを身に付け出した札響は、ヨーロッパからの指揮者バーツラフ・ノイマン、アルヴィド・ヤンソンス、ラファエル・フリュウベック・デ・ブルゴスなどの大物指揮者にも好まれ、「もう一度やりたい」と次の約束をするほどになった。
 シュヴァルツ氏は日本語も得意になり、わずかだけ音を弱くしたり強くして欲しい時、シュヴァルツ流造語で「チョチィッシモ」を連発、また、二期会のオペレッタ「こうもり」で全国ツァーの時、劇中で舞台上の看守フロッシュと指揮者シュヴァルツが日本語でやりあう場面での迫真の演技は毎回見物だった。
 着任後3年たって、東京での仕事が増えたため札幌から居を移し、札幌市民との交流が少し薄くなって残念がられたが、任期が終わって帰国しても想いは札幌にあり、ザルツブルグの講習会で指揮科の教授をしている時、日本人の学生が来ると必ず札響の話をしていたそうだ。

(竹津宜男)


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PLAYER’S TALK

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 札幌交響楽団ホルン奏者

     かんの     たけし
  菅野  猛 さん

ホルンはいつ頃始められたのですか?
 中学生の時はスポーツ(陸上、バスケット、水泳等)をやっていましたが、何か音楽はやりたいと思っていました。ビートルズが好きだったので…。3年生の時にブラスバンド部ができたので入部を希望したのですが、希望者が多く、オーディション(音楽の筆記試験)がありましたが、落ちてしまいました(笑)。それで水泳を続けようと思っていたら、今度は入学した高校に水泳部がありませんでした。それで勧誘されたブラスバンド部に入部しました。人気のあるトランペットやクラリネットは決まっていたので、映画音楽などで聴いてかっこいいと感じていたホルンを選びました。もう一人いたホルンパートは経験者、私は初心者ということもあり必死で練習しましたね。そこに札響のホルン奏者の先生が指導に来られていて、さらにホルンに惹かれていき、音楽を続けたいと思うようになりました。とにかく朝から晩まで一所懸命に練習していました。

札響入団までの経緯は?
 札幌の高校を卒業後、国立音大に進みました。在学中、札響にエキストラとして参加した時期もありましたが、卒業後は東京シティフィルに入団しました。東京にいる間は、テレビやアニメ、CMなどのスタジオ録音の仕事もたくさんありました。8年ほど在籍した頃札響のオーディションがあり、それを受け入団しました。1985年でした。

新たに始まったポップスコンサートはいかがでしたか?
 このコンサートには、企画からアレンジに至るまですべてに関わっていましたので、お客様の反応がとても気になりましたね。型にはまらないで音楽を聴いてもらい、オーケストラに親しんでほしいと思い考えたプログラムでした。満員のお客様の多くに楽しんでいただけたようで、本当によかったと思います。一部には、札響はクラシックだけをやるべきだという声もあるようですが、多くの方に演奏会に足を運んでいただくには、ジャンルにこだわらずに楽しんでいただける企画も大切だと思います。もちろん基本はクラシックです。クラシックがしっかりやれてこそ、ポップスも活きてくるのです。

最近の札響について
 札響全員が協力して、本当によいオーケストラにしていこうという意識がより高まってきています。北海道唯一のプロオーケストラとしての役割を果たそうと努力しています。音楽をもっと身近に感じてもらえるような企画でファンを増やすこと、そして将来に向けて若い芽を育てていくため、様々な教育プログラムを実施していくのが大切だと考えています。

音楽以外で楽しんでいることは?
 まずは木工大工でしょうか。小さな整理箪笥のようなものを作ったのが始まりですが、すっかり凝ってしまいました。自宅の地下に工房があるほどですから(笑)。料理も好きで、ピザ生地やパスタ、ケーキ等なんでも作ります。趣味というより生活の一部ですね。油絵も描いたりします。共通して言えるのですが、何かを作りあげる過程が楽しいですね。登山等のアウトドアも好きですが、今年は天気に恵まれず、一度も行けていません。

最後に札響くらぶに一言
 いつも応援して下さる札響ファンの皆さんと楽団員がもっと気軽に、なるべく多くの人が集まってコミュニケーションをとれるような場があればいいですね。多くの会員の方たちと顔を会わせて、お話をしたいですね。そういう場で、演奏に関する率直な意見や感想などを話していただけるようになれば、札響も更に向上していけると思います。



 札幌交響楽団コントラバス奏者

      のぶた   しょうぞう
  信田 尚三 さん

音楽を始めたのはいつ頃ですか?
 中学生になってから音楽部に入部したのが始まりです。吹奏楽部ではなくて音楽部でした。そこの先生はジャンルにこだわらず、いろいろなものを好きにやらせてくれました。当時流行っていた「ブラザース・フォー」を真似て、ギターで歌ったりしていましたが、やるのならベースも欲しい…ということになって、友達数人とお金を出し合って中古のコントラバスを買いました。狸小路で二万五千円だったのを憶えています。皆で持ち回りで弾いていたのですが、中学卒業後、どういうわけか私の家にありました。それで、ジャズピアノを弾く兄の伴奏をするようになり、本格的に勉強する気になりました。まずはクラシックの基礎をやらなければということで出会ったのが札響の林雄一さんでした。更に日本のコントラバス界の草分けだった長汐寿治先生にも教わることができました。学生の自分以外は皆札響の奏者という環境で勉強できたのは貴重な体験だったと思います。

札響に入団するまでのいきさつは?
 洗足学園音大在学中に、札響で増員するということで声がかかりました。まだ2年だったので、卒業してからとも思いました。しかし、プロになれば仕事をしながら同時に勉強になる。もちろん収入もあります。学生はとにかくお金がかかりますからね。それで良いチャンスでもあると考えて入団することに決めたわけです。1975年の1月のことです。その年の6月に札響初の海外公演が行なわれました。札幌市姉妹都市公演としてポートランド、ミュンヘンとガルミッシュ=パルテンキルヘンに行きました。それから今に至るまでの札響での28年間はあっという間でしたね。

今までで印象的だった演奏は?
 チェコ・フィルのヴァーツラフ・ノイマン氏の指揮でのスメタナの「わが祖国」全曲演奏です。ノイマン氏の楽譜は、こちらで用意したものではなく、ご自分のものを使われていました。今まで何度も使ってきたその楽譜に込められている、この音楽への思いというものを感じました。どの楽団員にもそれは伝わっていたと思います。結果、本当に素晴らしい演奏が出来て、満員だったお客様が大変満足されていた様子をよく憶えています。もう一つ、忘れられないのは小澤征爾氏の指揮でのチャイコフスキーの交響曲5番。練習は1日しかないという状況だったにもかかわらず、楽団員の集中力を引き出していました。「おはよう!」と入ってきただけで、皆を引きつけるわけですから、小澤という人間のものすごさを感じました。この時の演奏も大成功、大変よいものでした。

ところでどんな趣味をおもちですか?
 地方に演奏旅行に行った時、近くに海があれば数人で釣りをしたりします。以前、道東の漁港で面白いようにチカが釣れたことがあります。ほんの2時間ほどで300〜400尾は釣れたのですが、釣った魚をどうするか悩んだことがありました。スポーツではゴルフが好きなのですが、最近はなかなか行く時間がありませんね。冬は、やっぱりスキーでしょうね、北海道の人間ですから。

札響くらぶに何か一言
 昨年の危機報道がきっかけで、札響が何をするべきか改めて考える機会が出来ました。その中には教育プログラムも含まれています。「札響くらぶコンサート」はそういった意味でもよい企画だと思います。「指揮者に挑戦」のコーナーは特に楽しい。このコーナーだけにしてほしいと思うくらい好きです(笑)。普段は聴くだけの子ども達が音楽に参加するということは大切です。それがきっかけで音楽の道を目指すこともあるかもしれない。それは素晴らしいことだと思いませんか?そういう場を作ってくれて有り難いと思っています。

笠倉聖子


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from 「札響くらぶ」

練習見学会 今年も2回実施

 例年秋に実施してきました練習見学会が、昨年に引き続き、9月11日(木)と10月4日(土)の2回実施されました。
 9月11日は広上淳一さんの指揮で、翌日の定期演奏会のリハーサルをキタラで見学しました。地の利はよかったのですが平日ということで、参加人数が心配されましたが、52名の会員の参加があり係もほっとしました。
 10月4日は西本智実さんの指揮で、翌日の滝川公演のリハーサルを芸術の森アートホールで見学しました。芸術の森は遠いため、なかなか人数が集まらず毎回心配させられてきましたが、今回は西本さんということで、100名ほどの申込みがあり、当日は午前中にかかわらず80名の会員が集まりました。例によって、東京、大阪からの参加もあり、人気の高さには驚かされます。
 見学会では、10時30分から午後1時まで、途中休憩を挟んで約2時間半、メインのチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」と「アンダンテ・カンタービレ」の熱のこもった練習を見学しました。

西本智実さんにうかがいました

 10月4日の練習見学会の際に、来年の「札響くらぶコンサート」に再度お願いしている西本智実さんに「練習見学会はいかがですか」「来年の札響くらぶコンサートへの思い」の二点についてうかがいましたのでご紹介します。西本さんは、ロシアから帰国した足で札幌入りしたということで、「まだ時差ぼけなんですよ」とおっしゃりながら、快くお話し下さいました。
 「練習を公開するというのは、親しんでいただくという面では良いことだと思います。ただ、本番にも来ていただけるということであるというのが希望ですけれども(笑)。指揮者の中には、こういうのを◎363Eがる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は気にしません。」
 「札響くらぶコンサートは、今年初めて呼んでいただきましたが、何というのでしょうか、札響を支えていらっしゃる札響くらぶの皆さんの愛情というようなものが客席からすごく伝わって来まして、オケの皆さんもすごくよいあたたかい感じで、音楽で応えていたと思います。指揮者のコーナーがあったり、まさに札響くらぶならではのコンサートだと思いますので、これはずっと続けていただきたいなと思いつつ、今年来年と続けてさせていただくことを光栄に思っています。とにかく、楽しみなコンサートですので、できるだけ皆さんの、こういう曲が聴きたいなということにお応えできるようなプログラムにできればと思っています。」

本年度2回目の交流会が実施されました

 4月の「札響くらぶコンサート」後に実施された楽員さんと会員の交流会に続き、本年度2回目の交流会が、9月26日(金)に「名曲シリーズ」終了後レストラン・キタラで開催されました。
 当日は尾高さんが指揮をされるということから日程が決められ、尾高さんにもご出席いただき、楽員さん、会員の皆さん合わせて約100名の参加があり、いつもの通り楽員さんと会員の皆さんが和やかに歓談する楽しい交流会となりました。



編 集 後 記

 今号は仙台訪問についての報告を中心としました。
 私にとっては約25年ぶりの仙台訪問でした。政令指定都市になってからは初めてです。街の雰囲気が随分変わった感じを受けました。かつては、東北随一の都市とはいってもどことなく城下町の面影を残した地方都市、という感じでしたが、いまや、本当に大都市という感じで、個人的には昔のしっとりとした良さを知るだけに、少し寂しい思いをしました。でも、それは旅人の勝手な感傷ということなのでしょう。
 今回、上田会長は不参加でしたが、札幌にも参考になるようなことを多々体験出来たのではないかと思いました。
 今後もファンクラブの交流を絶やさず、山響訪問も実現したいものです。

(佐藤良次)

「札響くらぶ」を無駄にせず、読み終ったらお知り合いへ。
次号の「札響くらぶ」は2月発行の予定です。